線形性と松竹梅

◆日記

You are a VISION!(あなたはなんて美人なんだ!)という英語を聞くと、「vision」が「美人」に聞こえて oO(今のは英語だったのか…?)とよく思います、知る限り2つの映画で聞いたことがあるので、よくある慣用表現なんでしょう。

ここのところ、お昼ご飯にはいつもセブンイレブンのサンドイッチと、熱湯を注いでできるインスタントスープを食べています。おなか一杯食べるとすぐに眠くなってしまうので、なんとか夜まで耐えられる程度の量をお腹にいれることで絶妙なバランスを成立させています。一昨年辺りはほとんど毎日ランチにでかけてお腹一杯食べて、それでも午後に眠くなることが全くなかったので、果たして何が違うのかとうすら疑問に思っています。

日記の内容がくだらなさすぎるかもしれない、気持ちとしては日記がおまけなので…
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◆メモ

線形的に物事を進めたいと思う、後戻りせずCtrl+Zをしない。これは欲求というより夢。試行錯誤する時間を与えられると、最終的な成果物のクオリティを管理できなくなる、大事なキーワードに付箋を貼って後回しにするのと同じように、これはすなわち完成までの道筋の敷設を後回しにすることである。

始める前から完成がイメージできるように/物事を進めながら完成に向けて舵取りができるように、その中でできる試行錯誤を含めたプロセスを身体に埋め込んでおく必要がある。

ここのところ時間をかけることに対する忌避感が強い、時間をかけずともいいものに辿り着くべきという理想を描きがち、とにかく作業スピード∝回転率を上げたい。理想主義でありながら地に足をつけた実利的なさもしさを兼ね備えている。とはいえ実利と精神的価値を比べた時、前者と後者は互いに依存しているので、活動時間の内にはそれぞれにかかる時間の逆数だけ頻度として按分されるべきだとは思う。難しい本を何日もかけて読むような経験はそれこそ実利に専念するうちは味わえない訳で。。

何事も3層程度に上塗りをして完成させたいと思う、一層目で梅、二層目で竹、三層目で松。背伸びをしてでもやるべきことには+αで上塗りを重ねて極とでもしてみる。毎日描くような日記やメモは1層で足りて、むしろのその粗々しさが味であり、こういうブログは少し推敲がかけられて梅~竹くらいになっている。個人的にXのつぶやきやInstaのストーリーズですら竹程度に推敲してたりする、梅程度でも見せられるような図々しさがほしい、梅独特のグルーヴ感は竹や松では味わえないから。

この松竹梅が線形グラフの時間関数になっているといい感じなんだけど、実際にこの松竹梅は同じ経路を描いていない。梅には梅なりの、松には松なりのゴールを見据える必要があり、考えてみればそれはその通りで、10分の漫才を開始4分のところで打ち切っても、いくら途中が面白いといえども「どうも、ありがとうございました~」と〆られなければ漫才としては壊滅しているも同然になってしまう。